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2012年2月号

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コンピテンシーと評価

麗澤大学 経済学部 大学院国際経済研究科 教授下田 健人 氏 《プロフィール

麗澤大学 経済学部 大学院国際経済研究科 教授 下田 健人 氏人には元来、見えないものを見たい欲望がある。コンピテンシーはその一つである。

コンピテンシーとは何か。コンピテンシーは、もともとエグゼンプト(エグゼンプトの定義についてはすでに前号で述べた)のため、正確には、エグゼンプトの「雛」たちのために用いられた。すなわち半人前の優秀な人材である。1990年代後半、ITバブルの絶頂だったアメリカで、優秀な人材の獲得競争が企業間で激化した。単に優秀な人材の獲得だけはなく、ヒトが育つより早い段階で、いい人材を獲得したいと、企業競争はエスカレートした。22歳の半人前を好んで採用する日本企業には当然の行為だろうが、「必要な時に必要な人材を」が人事の基本である国からみれば、新しい試みである。

コンピテンシーは、近い将来、エグゼンプトとして活躍が期待されるヒトの管理に向けられる。具体的には、採用と能力開発である。コンピテンシーの考えを最初に導入したコンサルティング企業は、当初、氷山モデルとしてコンピテンシーを想定した。すなわち、自社における優秀なエグゼンプトをみれば、優れた成果を出す点で共通する。しかし、彼ら一人ひとりは氷山のようである。氷山とは、山の一部を海上に出しており、誰でも確認できる。ところが、海中に沈む部分は見えない。自社にはいくつもの素晴らしい氷山(優秀なエグゼンプト)があるが、素晴らしい氷山を支える見えない部分はヒトによって異なる。氷山の見えない部分をコンピテンシーと呼んだ。自社にとって優秀なエグゼンプトであれば、自社にとって大事なコンピテンシーである。自社にとって大事なコンピテンシーが認識されれば、エグゼンプトの雛を採用する際の基準になる。エグゼンプトを育てる際の指針になる。

ところで、コンピテンシーという言葉は、能力開発分野の多くの場面で使われるようになった。すなわち、コンピテンシーは、当初用いられた意味を超えて、職業能力全般を指す場合が多い。理由は、職業能力に関わる言葉が多かったためである。コンピテンシーが登場する前は、技能やスキルという言葉、あるいは、技術力という言葉を使った。スキルには、ソフトスキルヒューマンスキルハードスキルテクニカルスキルコンセプチュアルスキル、などなど様々な概念がある。研究者によっては、ブルーカラーの職業能力とホワイトカラーの職業能力を切り分ける人もいる。目に見える能力はいいが、目に見えない能力はより複雑になる。

ちなみに、職業能力と並んで、職業能力開発も多様である。職業能力開発は、一般に、英語で、TVET(Technical Vocational Education and Trainings)あるいはVETと表現される。一方、アメリカでは、CTE(Career and Technical Education)という言葉を多く使う。私には、どれも指す対象は同じように映り、言葉遣いの問題だけのように思える。職業能力開発は、学校教育(education)と職業訓練(vocational training)にまたがるため、言葉遣いを複雑にさせる。学校教育を担当する教育省と、職業訓練を担当する労働省の相克は日本に限ったことではない。アメリカで、職業(vocational)という言葉を用いないのは、単にブルーカラーをイメージし、国民の受けがよくないからだ、とアメリカ労働省の友人から聞いたことがある。いずれにせよ、職業能力開発に関わる領域では、コンピテンシーは、職業能力に関わる全般を指し示す概念として、複雑化し、多様化したカテゴリーを整理した。

さて、日本に目を向ければ、コンピテンシーは馴染みが深い。多くの日本企業は職能資格制度を導入し、長い間、目に見えないものを評価することに慣れ親しんできた。責任感、協調性、ひたむきさ、積極性などは、人事考課の代表的な項目であり、多くの項目はコンピテンシーとかぶる。

企業は、自社におけるエグゼンプトのコンピテンシーを認識すれば、エグゼンプトの雛の採用、能力開発にコンピテンシーを活用する。難しいのは、コンピテンシーの評価である。半人前をどうしても評価したいというのであれば、コンピテンシーは有効な手段である。一人前は、目に見える成果で評価すればいいが、個人のコンピテンシーが成果に直結しない発展途上の雛には、目に見えない部分を評価してあげたい。しかも、優秀な雛であれば、他社に引き抜かれては困るだろう。できうる限り、より高い条件で評価し、雛たちの満足を得る必要がある。

人事がヒトを評価する際に拠り所にするのが基準である。多くの企業には、人事考課のための基準が設けられている。評価における世界共通の哲学は公平性、透明性、納得性である。ヒトを評価する専門家たちは、できれば基準に客観性を求めたい。評価結果について、従業員と揉め事を起こしたくない。さて、目に見えないコンピテンシーを測る共通な評価基準は可能だろうか。世界には、職業能力を測る基準は多くある。日本の技能検定は代表的な評価基準であるが、目に見える技能を評価の対象にする。

私は2003年から、APECの人材養成国際フォーラムの議長を務める。毎年、もっとも重要性の高いテーマを設定し議論するが、どんなテーマを設けても、必ず登場する議論がある。すなわち、コンピテンシーの国際評価基準の導入である。世界の国々は、統一的な評価基準を求めている。しかも、目に見えないコンピテンシーを含めて評価したいと考える。多くの国々が、また多くの民間コンサルティング企業は、コンピテンシーの国際基準を策定したいと躍起である。評価基準と能力開発をセットにすれば、莫大な市場があると想定される。

見えないコンピテンシーを観たいという野望は続くだろう。しかし、私は、コンピテンシーの統一的な評価基準の導入には悲観的である。いずれ生物学のさらなる発展により、遺伝子レベルでヒトのコンピテンシーが解明されるかもしれない。それでも難しい。なぜならば、ヒトを取り巻く環境は日々刻々と変化し、環境の変化や教育はヒトのコンピテンシーを変えうるからである。大学で20年間教育に従事しているが、学生たちが「化ける」場面に何度も遭遇した。能力が開花すると言っていい。当該学生が良いように豹変すれば、それは私の教育の賜物と自讃したいが、実際には、誰が、何が「化ける」を引き起こしたかは誰も特定することが困難である。

世界が統一的な評価基準を設けたい理由は、評価の公平性、透明性、納得性である。グローバル化が進めば、企業は、場所にとらわれず共通の基準でヒトを評価することをいっそう求める。競合他社の評価を参考にしながら、競争的な評価を導入し、優秀な人材の獲得、定着が可能になる。同時に、労働力の供給サイドに目を向ければ、働く人々は、世界標準を参考にして現下の評価を客観的に判断できる。自社での評価が市場水準より低ければ、転職する可能性が高まる。世界が共通の基準をもてば、対象は世界に広がる。国際会議で、国際的な評価基準が議論される際に、必ず出てくる言葉が頭脳流出(brain drain)である。優秀なヒトを獲得、定着させるために導入したはずの評価基準は、しばしば優秀なヒトの流出の手助けとなる。

さて、私は、国際的な評価基準の導入には悲観的であるが、見えないものを見たいという願望をもつ。そして、私は可能だと信じる。可能にするのはヒトそのものである。すなわち、ブレーンストーミングをしてはどうか。ブレーンストーミングの効果は「気づき」と「構造化」である。小さい企業であれば全社を挙げて、大きい企業であればひと塊の部署をあげて、メンバー全員で、ブレーンストーミングする。自社(自部門)で大切だと考えるコンピテンシーをメンバー全員で挙げる。メンバーは、集中することで、日常考えなかった自分たちの大事なコンピテンシーに気づく。仲間のカードを見て、さらに自分で気づかなかったコンピテンシーを意識する。メンバー全員によって示されたコンピテンシーを、メンバー全員で議論しながら構造化する。コンピテンシーを構造化することによって、自分たちにとって基本的なコンピテンシー、補完的なコンピテンシー、発展するコンピテンシーなどを理解する。世界に共通するコンピテンシーもあれば、当該企業、当該部門に特有のコンピテンシーもある。数年前と同じ構造かもしれないが、全く新しい構造が誕生するかもしれない。大事なことは、ブレーンストーミングを通じて、本来目に見えなかったコンピテンシーが、ホワイトボード上で目に見えるようになることである。後は、可視化されたコンピテンシーに重みづけをすれば、評価の大きな手助けとなる。

 

お断り

その1.日本の厚生労働省、中央職業能力開発協会は、職業能力の評価基準に尽力し、大きな成果を収めている。私自身、微力ながら貢献してきた。本エッセイは、この努力に背くものではない。多くの企業が、統一的な評価基準を求めるのは、評価に困っているからである。困った人にとって、しばしば統一基準は美しくみえる。しかし、その美しいものをそのままもってきても、必ずしもうまく機能しない。まず、ブレーンストーミングして、自社のコンピテンシーを構造化した上で、中央職業能力開発協会が策定した評価基準をみていただくことが肝要である。全く違ったものがみえてくるはずだ。

その2.従業員とブレーンストーミングする際にもっとも重要なことは、自社の従業員を信じることである。私の経験からいえば、評価基準の設定は、しばしば数少ない優秀な人事担当者の手に委ねられることが多い。彼らの孤独な作業は、時として現場から遊離したものになる。人事担当者は経営に近く、優秀な人たちが多いが、自社のグループの中に混じって、みんなと楽しみながら自社のコンピテンシーを洗い出してみてはいかがだろうか。

 

 

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