JAVADA情報マガジン キャリアに関する研究者からの提言【キャリアナウ】

2012年3月号

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TPPと人の雇用

麗澤大学 経済学部 大学院国際経済研究科 教授下田 健人 氏 《プロフィール

麗澤大学 経済学部 大学院国際経済研究科 教授 下田 健人 氏経済学は正解がない学問である。その時、その場所の人々の価値観が、その時、その場所で最も相応しい答えを選択しようと努力する。通常、国家が何がしかの政策的な決断を下すに先立って、相対する哲学、理論、政策の狭間で複数の価値観が揺れ動く。選択された決定は、長期間、正しい決定だったと人々に認識されるかもしれないが、時として、非常に短い時間で、あの決定は間違いだったと反省することもある。例えば、自由貿易主義か保護貿易主義かという論争は、経済学が誕生した時から始まり、未だに決着を見ていない。近年、政治、経済上大きな論点であるTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は、再び答えのない経済の難題を日本に投げかけている。

ところで、自由貿易主義か保護貿易主義かという両者の論争は、戦後、自由貿易主義が優位に進められた。世界全体として(マルチ)、自由貿易を進めようとする総本山WTO(世界貿易機構)の努力、自由貿易協定や経済連携協定などを二国間(バイ)で進めようという諸国の努力により、世界は自由貿易の網で巡らされる。

私の専門は雇用である。果たして、TPPは雇用にどう影響を与えるか、は私の大きな関心事である。自由貿易をめぐる議論は、元来モノに関する議論である。関税障壁を撤廃して、国境を越えて自由にモノを移動させようというのが自由貿易主義の基本理念である。自由貿易は当該国の経済成長に寄与する。自由貿易の網の中で、モノは自由に世界を移動し、続いてカネが世界を席巻した。では、ヒトはどうか。

日本を離れ海外で働き、また生活するヒトは増加し、2011年でおおよそ100万人に及び、一方、海外から日本に来て、働き、生活する外国人の数は、2010年、日本の人口のおおよそ1.3%を占める(図表1)。1%という数字は先進国では小さい。しかし、日本の歴史を時系列でみれば、1985年ごろまでは一定割合で変化したものの、以後右肩上がりで推移している。

日本において、TPPがヒトとどう関わるかという議論について考える時、第一に考慮すべき環境要因は人口減少である。経済学には多くの主義、主張、さまざまな潮流があるが、経済の第一目的が経済成長であることを否定する人は少ない。経済成長には人口増加は不可欠である。1万人の国と1億人の国では、どちらの経済が大きいかは火を見るより明らかである。国立社会保障・人口問題研究所が提示した人口動態の変化は逆U字カーブを描き、その頂点は既に過ぎた。2012年2月の報告によれば、今後50年間に、日本の人口は現在の3分の2に減少し、1人の生産人口が1人の老齢人口を支える、いわゆる「おんぶ型」になる(図表2)。すなわち、長期的に日本は人口減少し、経済成長は鈍化する。

私は、日本をこよなく愛し、日本は素晴らしい国だと考える為、何とか自力再生を果たしたいと願う。日本のために、国家を挙げて、早婚、多産を推奨することを主張するが、私の考えは危険思想のようだ。様々な環境要因を考慮すれば、日本人の出生率を高めるという自力再生の道は険しく、日本が経済成長を達成する為には、外国人を受け入れるという他力本願の道しかない。すなわち、日本は多国籍国家を目指す。今(2012年)という時を日本で共有する人たちの価値観は、日本の経済、日本の未来をどうするかという選択に迫られている。

ところで、TPPを巡る一連の議論の中で、私がどうにも腑に落ちないことがある。それは国の力に関わる。多くの論者が、日本の利害について言及する。工業団体は、TPPへの参加により輸出が促進され、製造各社にとって利益をもたらすという。逆に農業団体は、TPPへの参加により、品質の高い廉価な農産物が日本に輸入される為、国内の農業に打撃を与えるという。確かに、個々の利害団体が自己の利害を主張することは、近代社会を支える基本哲学の一つである。しかし、日本は世界を代表する大国である。世界を代表する大国がこれから経済を発展させようとする国と対等にお互いの利害を主張して議論ができるだろうか。ましてや貧困を国の最大課題に掲げる国の前で、豊かさを謳歌する国が自国の利害をごり押しできるだろうか。多くの国々が、経済的豊かさや品性の面で日本を尊敬の眼差しで見るときに、自分勝手な態度や行動を取れるだろうか。

ヒト(雇用)に話を戻そう。自由貿易をめぐる議論でしばしば使われるキーワードは「比較優位」である。果たして、ヒト(雇用)の面で、日本の比較優位は何か。私は、偏(ひとえ)に「人づくり」だと考える。すなわち、親の躾であり、学校教育であり、企業における能力開発である。人の一生をかけて、日本人は一生懸命学び、そして、一生懸命教える。日本人には当たり前のように見えることが、しばしば世界で不思議にみえることがある。年齢に関わらず英語を初めとする語学を学びたいという日本人は多い。資格取得に向かう人も少なくない。二宮尊徳や菅原道真は、日本人にとって永遠の英雄である。

1980年代、多くの日系企業が東南アジアに進出した際、私は現地で人づくりに関する調査を精力的に行った。成果は、労働政策研究・研究機構から報告書として出版された。多くの日系企業は、必ずしも自社の利害に関係なく、進出先の国を想い、熱心にローカルの人々を教育した。もちろん、自社の従業員に対しても熱心に能力開発を行った。そして、教育投資を受けた従業員は「ありがとう」と言って、よりよい条件で欧米系の進出企業に転職した。欧米系の企業は、日系企業で働いた経験をもつ人たちを高い条件で採用した。それでも、日系企業は、お人好しともみえる能力開発を継続した。投資対収益という企業の合理的な算盤勘定はない。90年代以降、中国が投資先として注目され、多くの日系企業が中国に進出したが、東南アジアと同じように、日系企業はローカルの従業員に対して熱心に教育投資する。

また、日本政府はODAを使って、途上国の人づくりに尽力した。JICAに代表される日本による海外協力は、日本の技術や技能の高さに支えられ、そして、人づくりという比較優位によって世界に貢献した。当時、あるいは今でも、行政や企業は、投資に対する効果を測定したいと考える。「顔の見える国際協力」は、しばしば重要なキーワードとして叫ばれる。しかし、残念なことに、教育や能力開発は目に見えない。日本政府、日系企業によって育てられた人たちのコンピテンシーの重さを測ることはできない。日本によってコンピテンシーを磨かれた人たちの感謝の重さを測ることはできない。

今を生きる人々の価値観が、TPPについてどのような判断を下すか見えない。しかし、私は、懐深い態度で貧困国や途上国から日本にヒトを受け入れるべきであると思う。確かに、日本語という言語の壁が日本を孤立させてきた。しかし、世界が狭まる現代において、日本語を理由に日本の孤立を擁護することはできない。日本は世界のビジネスの拠点であり、世界経済に大きく組み込まれている。日本の経済成長のために、多くの人たちに日本に来てもらう必要がある。そして、世界に誇る日本の人づくりを継続し、世界に貢献すべきである。

 


〔脚注〕

  • 例えば、労働政策研究・研修機構調査研究報告書No. 84『日本の人づくり協力-政府、NGO、企業の活動を総合的に捉える-』1996年

 

 

 

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