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2020年6月号

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キャリアとオーラルヒストリー
第3回:私が参加したオーラルヒストリー調査(2)
 ~労働組合OB・B氏オーラルヒストリー

高千穂大学 経営学部 教授
   田口 和雄 氏 《プロフィール

1.B氏オーラルヒストリーをはじめた経緯

本コラム第3回で紹介するB氏オーラルヒストリーは、B氏が労働組合のユニオンリーダーとして活躍していた高度経済成長期の賃金制度の改定交渉と運用実態を聴き取りしたものです。

B氏オーラルヒストリー調査を始めたきっかけは、私が日本の大手企業を対象にした賃金制度の戦後史を研究していた中で、B氏が所属していた大手電機メーカー(以下「Y社」と呼ぶことにします)を事例研究の対象企業としたことでした。その理由はつぎの2つです。第1は事例研究の対象企業の条件として、戦後から現在まで企業が存続していることです。賃金制度の長期的な変遷を調べるには、賃金制度を含む人事制度が整備・確立されていることが必要です。戦後直後に設立された企業では、まだ従業員数が少なく、人事制度が体系的に整備されていない状況にあります。B氏が所属していたY社は、戦前に設立された日本を代表する企業でこの条件に当てはまりました。第2は、賃金制度の戦後史を深く研究するには、単にどのような変遷を遂げてきただけではなく、その運用実態や改定交渉も分析する必要があることです。賃金制度の変遷の概要(例えば、「19●●年●月、賃金制度改定」、「19▲▲年▲月、■■給導入」など)は会社史等である程度、記載されていますが、その運用実態や改定交渉の詳細に関する記述は見当たりません。それらを明らかにするには、改定交渉に関わった当事者あるいは関係者への聴き取り調査が必要不可欠であることです。

このオーラルヒストリーの語り手であるB氏は、高度経済成長期直前にY社に入社しました。その5年後に非専従として組合活動に携わったのを皮切りに、Y社労働組合の支部執行委員、支部副委員長、中央執行委員、副執行委員長、さらにはY社労働組合の上部団体の産業別組織の書記長を務めるなど、長年にわたって労働組合のキャリアを歩まれ、Y社労働組合の中央執行委員時代には賃金対策部長を務めていました。賃金制度改定の交渉プロセスの状況をみるうえで、B氏のキャリアは貴重でした。

 

2.賃金制度の改定交渉での議論~個別企業の賃金制度の戦後史研究の論点

個別企業の賃金制度の戦後史研究の分析の視点の1つに労使関係があります。第1回のコラムでお伝えしましたが、歴史研究において重要なことは研究対象に関する資料を集めることですが、とくにB氏オーラルヒストリーで伺ったお話の賃金制度改定の労使交渉に関する詳しい資料を集めることに困難を極めました。労使関係(改定交渉)に着目したのは、賃金制度改定によって新たに導入された賃金制度にその仕組み・決め方が採用されたのかその背景(経緯)を探るためです。改定交渉では新制度の最終案が決まるまでに第1次案(原案)からはじまり、交渉を重ねていくなかで何度か修正案が検討されるのが一般的です。とりわけ、原案に対する労使の間で考え方に違いがみられた場合、妥結するまで何度も交渉が行われますが、その交渉では何度も修正案が提示されています。個別企業の賃金制度の戦後史研究を進める上でこうした経緯を丁寧に分析することが必要なのですが、外部に公開されている資料がほとんどみられません。その理由は議論の内容を文書に残せなかったり、あるいは記録として残されている委員会等での議事録や関連資料は関係者にとどめられたりしているからです。それゆえオーラルヒストリーによる聴き取り調査を行い、このような情報を引き出していく努力が不可欠なのです。

また、賃金制度の改定交渉では、図1に示している交渉・協議の当事者同士だけで行われるわけではありません。交渉・協議に臨むまでにそれぞれの関係者(経営代表者は経営層等、組合代表者は組合員)との調整や意見集約などが行われます。このように交渉・協議に関わる関係者間の相互作用を分析することも大切で、オーラルヒストリー手法はこの点を分析するのに適している手法なのです。改定交渉に携わった方へのオーラルヒストリーの蓄積が進めば、個別企業の賃金制度の戦後史研究がより一層深まると考えています。

図1.労使交渉に関わる関係者の概要

図1.労使交渉に関わる関係者の概要

(出所)筆者作成。

こうした論点をもとにB氏へのオーラルヒストリー調査を行いました。まずY社の賃金制度の概要、とくに個別賃金の決め方と運用実態を、そしてB氏がY社労働組合での組合活動に従事していた高度経済成長期の賃金制度の改定交渉の状況を伺いました。

 

3.B氏オーラルヒストリーから得た知見~B氏を通して当時の情景に触れる

B氏オーラルヒストリー調査で賃金制度の改定交渉と運用実態について多くの知見を得ることができました。その中から以下の3つを紹介したいと思います。

第1は、交渉における論点(労使間の対立点等)、妥結への動きなど、賃金制度の改定交渉の議論の全容を知ることができる点です。もちろん実際の交渉の内実全てをオーラルヒストリーで明らかにすることができません。それでも資料ではわからない知見が多くありました。また、組合代表者として交渉に臨んだB氏の考えや想い、苦労や悩みなどの話をうかがうことができました。これは労使交渉のもう一方の交渉当事者である経営側の人事部等の担当者にも同じことが当てはまります。交渉代表者としての個人的な考えや想い、経営層との調整での苦労などがあります。経営側の人事部等の担当者へのオーラルヒストリー調査が可能になれば、さらに改定交渉の状況を多角的に分析することが可能になります

第2は、人事管理の近代化が進められた高度経済成長期において、労働組合はどのような問題意識を持って賃金問題に取り組んでいたかです。賃金は労働運動に対する組合員(労働者)の団結力の源であるがゆえ、組合員から常に高い関心をもたれます。高度経済成長期、Y社労働組合は賃金およびそれに連動する処遇格差問題(身分差撤廃問題、臨時工問題、直入者と中途採用者の処遇格差問題など)の是正に取り組んでいました。労働組合はどういう問題意識を持って取り組んでいたか、その状況をB氏は丁寧に語っていました。

第3は、歴史の視点からみた個別の賃金制度改定の位置づけです。経営学の視点からみた賃金制度は、それ自身が単独で形成されているのではなく、経営環境の下で企業が経営目標を実現するために展開する人事戦略にしたがって形成されています。「賃金制度は経営環境に規定される」という基本原則です。経営環境は戦後から幾多にわたり変化していますので、改定された賃金制度はその時々の経営環境に規定されることになります。ある時点の賃金制度改定を取り上げたとき、当時の改定交渉に携わった関係者にとっては大幅な改定、あるいは全面的な改定という意識で交渉に臨んでいたとしても、歴史の視点から振り返ると場合によっては部分的な改定であった場合もあります(もちろん現行の賃金制度にとって重要であった改定ということもあります)。Y社では戦後から2000年代前半までの間に賃金制度の大きな改定が5回行われました。その中で高度経済成長に入った1960年代前半の2度目の改定はそれまでの年功的な賃金制度から当時、注目された職務に応じた賃金を導入して賃金制度の中心にしました。その次の第2次オイルショック前に行われた3度目の改定、1980年代後半に行われた4度目の改定は、この2度目の改定で導入された職務に応じた賃金の手直しが主な改定内容でした。職務に応じた賃金を賃金制度の中心としつつも、当時の経営環境に適合するよう労使が知恵を出し合いながら改定交渉が行われていました。この話はB氏へのオーラルヒストリー調査でなければ得られない貴重な知見でした。

以上がB氏オーラルヒストリー調査の紹介です。次回は海外のオーラルヒストリーセンターに対して行った現地調査について紹介していきたいと思います。

 

 


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