5.産業精神保健法学のあらまし
今号では、前号までに述べた具体論を導く、体系としての産業精神保健法学(職場のメンタルヘルスに関する法律学)のあらましを述べます。一般的な法学は、既に生じた紛争や事件の事後的な解決や整理を目的としますが、この法学は、メンタルヘルス不調に関する問題の未然防止と生じた問題の適正な解決を通じ、個人と組織の成長と適応を支援することを最終的な目的としています。
法学の理論的なお話は、難しく感じられる方が多いでしょうが、こうした整理がなされなければ、個別の判断が場当たり的になり過ぎたり、その分野についての的確な理解が拡がらなくなったりします。この際、「頭の体操」と思って、読み通してみて下さい。
(1)産業精神保健法学の所掌
この領域に関する理解を支援するため、筆者が作成した産業精神保健法の鳥瞰図を示す(図1)。ここでは、現在、国の職域メンタルヘルス対策は、労働法体系の「一部の一部の一部の一部」という位置づけに留められているものの、それに実質的に関わる法体系は幅広く、従って、その成功がもたらす効果も幅広いことを一覧できるようにしている。このことは、国の発出する関連指針などが、かなり幅広い分野の法規に関連する内容となっていることからも、容易に看て取れる。
先ず、企業のガバナンスや会計などを司る商法・会社法、税法・会計法などは、メンタルヘルス不調の遠因となり得る。例えば、国際会計基準や外形標準課税の導入などによる企業経営への圧力はもとより、商法改正による分社化がもたらした不調者に対して雇用責任を負う主体の変化などが挙げられる。民法は、加害者の過失責任のみならず、メンタルヘルスに関わる民事問題全般を取り扱い、同法や個人情報保護法、刑法・特別刑法等は、不調者の情報管理などに関わる。しかし、法の定め・趣旨を見誤った過剰反応は、却って適切な健康管理のみならず、個々人の人格的・社会的な成長の妨げとなりかねず、他方、偏見を招き易い関連情報の不適正な取扱いは、問題を悪化させることもあり得る(ex.)民間保険への加入や事故発生時の保険金受給への障害など)。医療関係法は、専門科間の関係を含め、医療機関や医療人の業務のありように関わり、社会保障・福祉関係法は、在職者、離職者の安心や復職に深く関わる。とりわけ、産業と福祉が乖離している現状((i)人材と情報の交流の断絶、(ii)福祉対象者の一般就労機会の乏しさ、(iii)福祉給付対象者の復職の困難さなど)の打開は、喫緊の課題である。また、労働法の中でも、職場の秩序や具体的な労働条件(のほか、人事労務管理の基本方針)を規定する就業規則を司る労働契約法は、職域メンタルヘルスと極めて深い関係を持つ。就業規則は、悪用すれば、使用者に過度な裁量を根拠づけ、労働者の恣意的な排除をもたらすが、適正に活用すれば、不調者への対応上の適正手続を明示したり、快適な職場環境形成にも貢献する。労働市場法も、労働者の横断的職務能力の形成や転職市場の開発などを通じ、現在所属する企業の組織風土に適応しにくい人物のメンタルヘルスなどに貢献する可能性がある。集団的労使関係法が司る労働組合や組合と使用者の関係は、未だメンタルヘルス領域では存在感が薄いが、ほんらい、組合が貢献すべき余地は多くあり、その存在意義も示し得る。
(2)「切り分け」とは
端的にいえば、「法的に適正な区分け」を意味する。ここで「法的に」という場合、そこには、組織経営、医療、心理、福祉など、さまざまな視点が含まれる。これは、一律的な発想で組織経営を制約する、ということではなく、メンタルヘルス法務という観点で、個人と組織のリスク・マネジメントと、成長・適応を支援する趣旨である。
それを具体的に示したものが、図2と図3である。
図2は、横の軸と上下の軸で構成されている。横軸は、右が発症・増悪の事由が業務上に当たる疑いが濃い例、左が業務外に当たる疑いが濃い例、上下軸は、上が軽度の例、下が重度の例を指す。もっとも、特にメンタルヘルス不調について、業務上外を敢然と区分することは困難なので、あくまで蓋然性(高い可能性)レベルでの切り分けとならざるを得ない。また、症状の軽重も、単なる医学的診断によるものではなく、行動上の制約(職域においては就業上の制約)の程度や改善・寛解までの期間などを加味して決定することになる。
こうした軸を立てると、①~④の4つのフィールドができる。
①は、業務上の事由による発症・増悪の疑いが濃く、軽症レベルの不調者への対応領域なので、基本的に1次予防策(*「風通しの良い職場環境形成」や「個々人のレジリエンスの維持増強」など、不調者を生じさせないための本質的対策)や、2次予防策(*不調が生じつつあるところでの早期発見・早期介入策)で対応することが、(上に述べた意味で)「法的に」求められる。
②は、業務上の事由による発症・増悪の疑いが濃く、重症レベルの不調者への対応領域なので、基本的に3次予防対策(*不調者の休職・復職管理と支援、再発防止策など)が法的に求められる。併せて、所得と雇用の保障も求められる。また、再発防止策は、翻って、①の措置を求めることになる。
③は、業務外の事由による発症・増悪の疑いが濃く、軽症レベルの不調者への対応領域である。業務外の事由による不調への対応領域ではあるが、安衛法第62条や第66条以下が示すように、人間を雇用している以上、所要のパフォーマンスがあがらないからといって、直ちに休職措置や退職措置などの不利益措置を講じるべきではなく、期限付きではあれ、専門医や産業医の判断、本人希望等を踏まえ、短時間勤務、勤務軽減、配置の変更などの就業上の措置で対応することが、法的に求められる。
④は、業務外の事由による発症・増悪の疑いが濃く、重症レベルの不調者への対応領域である。ここでも、解雇権濫用規制(労働契約法第16条)から導かれる解雇回避努力義務や、障害者の雇用促進などの信義則上の要請を果たすため、原則として、休職措置や復職支援は法的に求められるが、a.難治性、b.所定業務・職場秩序・治療への悪影響などの要件を充たせば、解雇や自然退職措置も正当化される。
しかし、ただ離職させてよしとすべきではなく、社会保障や福祉制度にスムーズに連結するほうが、当事者や関係者の納得性を高め、司法を含めた第三者への説得性も増す。さらに、可能であれば、当該症例を単に福祉に受け渡すのではなく、「成長」や「生き直し」の視点を持つべきだろう。すなわち、先に述べた産業と福祉の乖離状況((i)人材と情報交流の断絶、(ii)福祉対象者の一般就労機会の乏しさ、(iii)福祉給付対象者の復職の困難さ等)を打開するための懸け橋として、一定の事業性と自律性を持ち、一般就労機会を積極的に創出する企業合弁型授産施設などを創設し、福祉と産業の人材・情報の交流を図るとともに、継続雇用となる高齢者等も受け入れるなどの方策も考えられよう。イギリスの保護雇用(sheltered employment:産業と福祉の間をつなぐ準公的ないし公益的な仲介者として重要な役割を果たしており、近年、増加傾向にある)などの先駆例もあるので、日本の社会保障や福祉制度の実態を踏まえつつ、アイディアをだし、行動を起こす必要がある。もとより、メンタルヘルス対策では、「道なきところに道をつくる」、「無いものは作れば良い」、という発想が求められる。
次に、図3を参照されたい。
これは、図2を横倒しにして、高さの軸として、いわゆるパーソナリティの偏りを考慮しようとしたものである。一般に、法律論上、疾病障害の場合、その性質や程度により、その影響下での非違行為は、責任能力や有責性がないとして、免責されたり、対抗的な不利益措置から救済されることがある。他方、パーソナリティに起因する問題行動が法的に救済されることは、原則としてない。このことは、図2の4領域のいずれにも当てはまる。しかし、精神障害の場合、外観上はパーソナリティの問題にも映る周辺症状などもあって、両者の切り分けは、実際には非常に難しく、現状、最終的には経験値の高い専門医の判断に拠らねばならない。特に、業務上の事由と本人のパーソナリティの双方が不調に寄与した場合などには、「どこまでが疾病障害の影響で、どこからが『わがまま』か」を、専門医に切り分けてもらう必要性が生じる。よって、法的に適正な対応に際しても、然るべき専門医などとのネットワーク形成が重要な意味を持つことになる。
もっとも、実際のところ、以上のような「法的切り分け」は容易ではなく、その実践は、適切な専門家や当事者・関係者の意見を踏まえて練られた合理的な手続きとその公正な運用(「手続的理性」)を通じて初めて実現される。
6.おわりに
産業精神保健法学は、最終的に現場的、社会的課題の解決を目的としているため、学際、国際、理論、現場の全てを重視する。その開発を図るための情報交換と専門家間の交流、人材育成のプラットフォームとして2015年2月に設立されたのが、産業保健法学研究会である。関心のある方は、そのWEBサイト(http://www.oshlsc.or.jp/app/)をご参照頂きたい。
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