JAVADA情報マガジン1月号 キャリアに関する研究者からの提言【キャリアナウ】

2013年1月号

←前号 | 次号→

技能五輪と我が国のものつくり文化~技能五輪の歴史(1)

諏訪東京理科大学 機械システム工学科 客員教授 / 前国際技能五輪日本国技術代表
 西澤 紘一 氏 《プロフィール

1.はじめに

西澤 紘一 氏

2005年6月1日の夜、第38回国際技能五輪大会閉会式でヘルシンキ(フィンランド)のアイスアリーナは湧きかえっていた。日の丸がうち振られ、金メダルを胸に掛けた小湊君(協和エクシオ社)が壇上で飛び跳ねていた。当時の競技名は、「TELECOMMUNICATION DISTRIBUTION TECHNOLOGY(職種番号#43)」と言った。日本では、「情報ネットワーク施工」と呼ばれている職種である。いずれにしても世界で初めて日本が提案した新規競技種目がデモンストレーション職種であったとは言え、世界のひのき舞台に立ったのだ。現在のモバイル革命が起こる前である。

小湊君の金メダル表彰の場面
図1 小湊君の金メダル表彰の場面

 

2.技能五輪との出会い

私が、技能五輪との関係が出来たのは、2001年の夏であった。光通信部品を研究開発していた企業(日本板硝子(株))に居た時代にISO(国際標準化機構)の委員を長く務めていたため、1996年職業能力開発総合大学に教授として移った際に、国際経験があるとのことで国際技能五輪大会日本国技術代表に指名された。技能五輪の知識もないままに、2001年9月に開催された第35回ソウル技能五輪大会に参加したのである。実は、大会開会式前日に9.11事件が起こり、翌日からソウルの街は、戒厳令下のように凍りついた。開会式当日(9.12)、米国選手団が入場してくると音楽が止まり、全員が立ち上がって頭を垂れ黙とうしたことを鮮明に覚えている。私にとって極めて印象的な大会であったが、そこで、初めて世界の若者が四肢五感を使って技能競技に打ち込んでいる姿に接した。20代前半の若者が、必死で機械や装置に向き合い、課題をこなしている姿は厳粛であると同時に美しかった。4日間の競技を終えて、緊張が解けて床に座り込む者、戦ったライバルと抱き合う者、満面の笑みを浮かべて審査員に握手をする者など多様な人間模様が見えた。見学者も思わず微笑んでしまう。

ソウル大会を終えて帰国した私は、何か世界に対して新しい競技を提案することはできないかと考えた。大学に移っても光通信技術開発を続けており、この技術をこなせる職業訓練指導員の養成を考えていた。そこで、通信配線技術、特に光ファイバの配線技術を取り上げて、技能競技にならないかと思いを馳せた。当時、光ファイバを接続する技術は、現場でサブミクロンの位置合わせをしなければならないなど大変高度な業を必要としていた。その時同大学校東京校に居た菊池助教授(現職業能力開発総合大学校電子システム工学科准教授、「情報ネットワーク施工」職種チーフエキスパート)と相談をして、まず国内大会を実施することから始めた。

2007年に静岡で第39回国際技能五輪大会が予定されていたので、新しい職種の提案は、主管官庁である厚生労働省からも歓迎された。さらに、日本主導の競技だけに金メダル獲得の確率も極めて高かったと言う理由もある。

2001年の後半から2002年にかけて、情報ネットワーク施工競技大会を開催すべく多方面に働き掛けた。当初は、電線製造会社やその業界にアプローチしたが、現実に光ファイバ配線技術を扱っているのは、通信建設会社であることが分かってきた。また(社)電信電話工事協会(現情報通信エンジニアリング協会)、(社)情報通信設備協会などがその中心にあることも分かってきた。同時に電気工事を主とする企業群をまとめていた(社)全日本電気工事業工事組合連合会も光通信配線ビジネスに参入を始めていた。これらの業界は、それぞれ主管官庁が異なり、それぞれの業界内で独自に技能者の教育訓練プログラムやその認定制度、競技大会などを実施していた。従って私どもの提案は、最初必ずしも積極的に受け入れられた訳ではない。

そこで、私たちは、「国際競技大会で新しい職種を立ち上げ、世界一になりましょう」と言うスローガンを掲げた。旋盤、フライス盤、溶接、CADなど伝統的な機械系競技種目は良く知られており、日本は常にメダル圏内にあった。しかし、いずれも外来種であり日本発の職種ではない。オリンピックの柔道のように日本発の国際競技種目を立ち上げることが私達の目標であった。

そのうち、通信建設業界に属する企業、電気工事業に属する企業も「世界一」の言葉に魅力を感じてきたのであろう。2004年に実施した「第1回情報通信配線フォーラム(会場:横浜パシフィコ)」に多くの選手を送ってくれた。メタルや光ファイバコネクタ付け、光ファイバの接続配線技術を競う競技大会で、いずれの競技場も多くの観客が詰めかけ黒山の人だかりであった。出場した選手も初めて衆目の前で自らの技術・技能を見せる経験をし、手が震えたとの感想を漏らす者もいた。この大会の成功が、近い将来世界の選手が競う新しい競技種目として提案できることを確信した。

同年10月、技能五輪全国大会が岩手で開催され、「情報ネットワーク施工」種目が新競技として立ち上がった。そこで1位になった選手がヘルシンキ大会への切符を手にすることになっていた。実際には、この時2位であった小湊君が世界大会への出場権を得た。1位であった選手が、大会時の年齢制限(23歳未満)に抵触して出場権を失ったからである。小湊君の不思議な運命を感じる。

この結果を持って、2004年5月に開催された香港での技能五輪大会の総会に出かけた。会場の写真や図面を持って如何に魅力的な競技であるかをアピールした。オランダやアメリカの代表も支持をしてくれた。

技能五輪世界大会の正式な競技種目になるためには、6カ国以上の参加選手を確保して、まずデモンストレーション競技として実施しなければならない。その後、8カ国を集めると正式競技種目となると言うルールであった。日本での新職種立ち上げの支持をしてくれる数カ国の代表をバックに、総会で情報ネットワーク施工職種を提案し職種登録をすることができた。あとは、参加国を集めるだけである。

最終日、参加国の予備登録があり6カ国以上は堅いと思っていた私は、愕然とした。魅力ある競技には違いないが、各国で技能を競うまでにその業界が成熟していないと言うのである。第1回のエントリーでは、日本を含めてわずか3カ国であった。これでは、デモンストレーション競技にもならない。初めて現実の厳しさに直面した。何とかエントリーをしてくれるようにロビー活動をする以外に無い。寝食を忘れて親しくなっていた各国技術代表に働き掛けた。まだエントリー変更が可能だと言うことで、さらに4カ国が名乗りを上げてくれた。これで7カ国参加となりデモンストレーション競技の条件はクリアした。まさに薄氷を踏む思いとはこのことだろう。諾否が明確な外国では、お世辞でOKすることは無いと思っていたら心情は日本と同じで、見事にはしごを外された。最終的には、大会開催の6カ月前に参加国の締めきりがあったが、2カ国が辞退したものの、新規に1カ国が参加の意思表示をしてようやくデモ競技として陽の目を見ることになった。これが、冒頭に述べた小湊君の金メダルへとつながったのである。

その後、2007年静岡大会、2009年カルガリー大会(カナダ)、2011年ロンドン大会と(株)協和エクシオの選手が4連覇と言う快挙を果たした。モバイル、携帯端末など通信需要が拡大してきた現在、光ファイバを除いて通信技術は語れない現状にある。この新規職種(Cabling and Networking Technologyと改称、職種番号も#2となった) は、アジア諸国の強い支持を受けて、世界の舞台で認知され人気競技種目の1つとなってきた。

 

3.技能五輪の歴史

ここで、技能五輪の歴史をひも解いてみたい。第2次世界大戦の後遺症がまだ残る1947年、欧州の西端、スペインの職業訓練センターを作ったアルバート・ビダール氏が技能競技大会を立ち上げた。戦後の復興に対して、若者に職を与えることから始めた欧州の心意気が良く分かる。その後1950年、隣のポルトガルが興味を持ち2カ国間で技能競技大会を開催することになった。この競技大会に欧州各国の興味を引き、7カ国に広がった。以降、どんどん参加国が増えて1年ないし2年おきに各国持ち回りで開催することとなった。

ビダール氏は、1976年まで国際技能訓練機構(International Vocational Training Organization:IVTO)の事務総長を務め、現在の隆盛の基礎を作った。彼の名を冠したビダール賞は、各大会で最も高い得点を取った選手に与えられることになっている。表1に、1962年に初参加して以来日本の活躍をまとめた。日本が初参加したのは、1962年(昭和37年)第11回開会(スペイン)であった。たった8名の参加で金メダル5個、銀メダル1個と言う好成績を残し、それを見た欧州各国選手は腰を抜かしたと言われている。ちょうど日本が高度成長期に入ろうとしている前夜で、当時の技能者のレベルが極めて高かったことを意味している。その後、我が国は、1970年に第20回大会を東京、1985年に第28回大会を大阪で開催するなど技能五輪活動にも積極的にかかわってきた。そして、ものつくり立国を成し遂げた黄金の1970年代から1988年くらいまでは、日本のメダル獲得数は、常に世界1位または2位を維持し続けて技能大国としてその名をとどろかせていた。

IMDによる日本の国際競争力経緯
図2 IMDによる日本の国際競争力経緯

この技能力が1980年代から始まる我が国の高度成長を支え、国際競争力世界1位の座が確保できたのであろうと思う。図2にIMD(International Institute of Management Development)と言うスイスのシンクタンクが毎年発表している国際競争力の経緯を示す。

80年代から90年代の初めまで、世界一であったことと、それまで技能五輪でメダルを取り続けたこととの間に強い相関が認められる。1990年代に入るとバブルが崩壊し、失われた何十年かが始まる。と同時に韓国、台湾の台頭が著しく、その後もこれらの国がメダル獲得数世界1位、2位を占めて、ものつくり日本の立場が揺るぐことになった。さらに2007年以降、ブラジルをはじめタイ、インドネシアがメダルを取り始めた。また2011年から正式参加をした中国も、技能五輪参加を経済成長路線戦略の1つと位置付けている。2013年ライプチッヒ大会からフルエントリーをすると言われており、どれくらいメダルを取るか分からない。まさに、名実とも「ものつくり大国」への道を歩み出すに違いない。
表1 技能五輪日本の参加経緯

技能五輪の歴史を見ると技能競技での好成績が、時間遅れでその国の経済成長、国際競争力強化に資することが見て取れる。我が国は、1990年前後にメダル獲得数が最低となり、それが失われた10~15年に対応しているように見える。90年代初頭からの著しい国際競争長の低下がそれを示唆しているように見える。しかし、我が国も2007年の静岡大会で26個もの大量メダルを取り、ものつくり大国への回帰が始ったように思う。

 


〔参考文献〕

  • 技能五輪メダリストの群像(西澤紘一、オプトロニクス社、2008年)
  • 日本のもの造り哲学(藤本隆宏、日本経済新聞社、2004年)

 

 

前号   次号

ページの先頭へ