JAVADA情報マガジン11月号 フロントライン-キャリア開発の最前線-

2022年11月号

←前号 | 次号→

技能五輪全国大会・若年者ものづくり競技大会への取組みを振り返って・
第1報 きっかけ~始まり期

岩手県立産業技術短期大学校水沢キャンパス 生産技術科准教授 本間 義章 氏 《プロフィール

中央職業能力開発協会(以下、中央協会)様には技能検定をはじめ、技能五輪全国大会・若年者ものづくり競技大会でもお世話になっています。特に第42回技能五輪全国大会いわて(2004年)の際に、著者は県の実行委員会の職にあり、共催という形で大変お世話になった経緯もあることから、今回このような機会を与えていただけたので、お引き受けすることにしました。

また、技能競技大会への学生参加としては、第37回技能五輪全国大会しずおか(1999年)でメカトロニクス職種の選手育成を担当してからであり、いわて大会の実行委員会準備業務の3年間以外の20年間以上に亘り選手育成を継続してきたので、一度振り返るきっかけになれば、と思ったところです。表1に選手育成の指導履歴を示します。

表1 技能五輪全国大会・若年者ものづくり競技大会における選手育成指導履歴

表1 技能五輪全国大会・若年者ものづくり競技大会における選手育成指導履歴

この間、社会を取巻く様々な環境の変化に伴い、本県に限らず指導員の働き方や学生への接し方、学生の雰囲気や気質も以前とは違ってきていると認識し、私自身も選手育成に対する姿勢や対応も少しずつ変わってきたと感じています。

本校では"ものづくり"における実践技術者の養成を主目的に挙げていますが、"ものづくり"を"ひとづくり"に置き換えて、"プロダクトライフサイクル"を、"事業のライフサイクル"に準えると、物事の始まり、成長して、成熟して、衰退していくといった4つのフェーズが存在して、そのフェーズによって対応や工夫、苦労が異なっていると考えます。

そこで、本稿では、技能五輪全国大会・若年者ものづくり競技大会に向けた人材育成の"取組みの成長サイクル"に注目して、これまでの取組みを大まかに4つのフェーズに分けて振り返りをしたいと思います。

 

1.始まり期(起業・創業)

技能五輪全国大会への出場は、"メカトロニクス"職種からです。著者が指導員になって5年目を迎えた時に、自動車板金職種の競技委員をされていた職場の上司が、第36回技能五輪全国大会ぐんま(1998年)に行かれた際に「メカトロニクスという職種が始まったようだから調べてみてよ」というひと言が全ての始まりでした。著者が所属する短大は、開設して3年目となっており、ちょうどシンボリックとなる取組みを模索していた時期でした。

第59回技能五輪全国大会 メカトロニクス職種競技風景

写真 第59回技能五輪全国大会 メカトロニクス職種競技風景

"メカトロニクス"職種について調べると、2名1チームの競技であり、高価な競技用装置が必要でした。全国大会の2カ月ほど前に、中央協会から参加団体に貸し出されている装置を借用できることになりました。

そこで、"メカトロニクス"の競技内容も無知のなか、学生に対して技能五輪全国大会という"技能の日本一を決める大会"があることを紹介して、選手の希望を募ったところ、ちょうど興味があるという2名の学生から手が挙がり、選手の確定ができました(当時は参加拡大を図るため予選はなく、各都道府県の職業能力開発協会(以下、都道府県協会)からの推薦で選手が確定していました)。学生もサークル活動のような軽い気持ちでした。

装置メーカーの方が来校されて、1日半程度の研修(レクチャー)を受けました。学生はプログラムで装置を動かせることが面白いと、1週間に3日ほど、放課後の時間を利用して基本動作を2時間程度ずつ練習し、単体での動作は何とか動かせる状態で本番に臨みました。競技は2日間で、全12~3チームのうち企業参加は2チームで、他は学校(能力開発施設)からの参加でした。競技が始まると、練習していないはずの課題が順調に動作して、不思議な気分でしたが、午後からの競技でその不安が現実のものとなりました。学生は、課題で与えられたデバイス割付表が何を意味するのか分からず、普段の練習どおりに割付配線しプログラムも普段どおり入力していたため、簡単に言えば、ダンスのような決まった動作はできても、具体的に"右手を挙げて"と脳から指示が出ても、神経(配線)が右手に繋がっていないので、間違って繋がれた左足が挙がってしまう状況でした。結局、そのあと選手は競技エリアに座っていただけでした。第1日目の競技が終わったあと競技委員から呼ばれて、「このままだと明日も何もできないで座っているだけとなるので、今晩中に配線を修復するように。」と指示されました。競技エリアに自分たちだけが残され、配線を全て修復しました。学生は朝からの緊張や疲れもあり、疲労困憊のなか悔しいやら恥ずかしいやらで、目に涙を浮かべており、それを見て、申し訳ない気持ちと自分自身も情けなくなり、一緒に泣きながら誤配線を修復しました。現在では、当時の学生と飲むと、この話題になるほど強烈な体験で、今では笑って話せる思い出ですが、初めて出場した技能五輪は、とても苦いものとなりました。

それでも技能五輪に出場してみたい、という後輩の学生の手が挙がり、次年度に向けて心機一転取組みを継続することとなりました。2年目は、競技の技術要素を整理し、教え残しがないように、全要素の修得を指導の目標に置きました。先輩職員のバックアップもあり、指導に注力することができました。しかし、この頃も1週間に3日ほど、放課後に2時間程度の練習で、選手も「こんなもんでいいだろう」と、基本レベルの課題をこなせる事に自己満足しており、練習も単調になっていました。

そうしたところ、現福島県立テクノアカデミー郡山の先生から合同訓練会に誘われました。翌年に全国大会を控える福島県では選手育成への注力が進んでおり、その合同訓練会には、メカトロニクス職種で既に金メダルを獲得している愛知の企業のコーチを招聘して指導を受けるので是非、ということで、職場の上司からも「行って来い」と背中を押されました。合同訓練会で出された課題は、普段の練習とは段違いに難しく、学生も手が出ず選手同士で悩むだけの状態で、解説と指導を受けて納得するばかりの結果でした。

その夜、指導員の懇親会の席が設けられ、企業のコーチから「競技をするのは選手ですが、特に技能五輪は指導員の戦いなんですよ。企業でも学校でも皆さん(指導者)が本気にならないと選手は育ちません。企業も人材育成とは言っても、意地やプライドを懸けてやっているのですから、誇りを持ってやって欲しい!」と檄(喝)をいただきました。企業の選手と同じ土俵に立つことは、それなりの覚悟でやらなければ失礼になると、衝撃を受けました。

合同訓練から戻ると、第38回技能五輪全国大会さいたま(2000年)までは、ひと月ほどであったと記憶していますが、選手と一緒にどうしたいか話し合い、選手から「とにかく、めちゃくちゃ頑張ってみたいです!」と意思を確認しました。大会までの間、その日のうちに帰宅することがないほど、毎日課題作りと練習に打ち込みました。疑問な点は、企業の方にアドバイスをお願いしました。そうして臨んだ全国大会では、まだ企業が数社しか出場していない時分でもあり、敢闘賞を獲得できました。その勢いで、翌年の第39回技能五輪全国大会ふくしま(2001年)では銅賞を受賞しました。ちょうど、技能五輪全国大会の本県開催(2004年)が決定したのもこの頃でした。

このしずおか大会の体験と、郡山の合同訓練での檄が、その後の指導の原点となりました。始まり期は、全体の雰囲気と運が良かったと感謝します。

"メカトロニクス"職種は立上げ間もないこともあり、競技をつくる意味からも参入のハードルが低かったこと。企業の方から学校に対しても心底真剣に接してもらえたこと。技能五輪の指導に注力できる環境を作っていただいた上司。そして何より、選手(学生)の存在です。当時は、今よりも誘惑が少なく、訓練に没頭できる環境があったからかも知れませんが、純粋にものづくりが好きで、打ち込むモチベーションが高い学生に後押しされ、指導というよりも、学生と一緒に、がむしゃらに試行錯誤できたことが礎です。特に著者の場合、技能五輪・技能競技大会の指導は、年ごとに程度に波があっても、そうした学生(選手)のモチベーションと、修得した技術を活かす就職指導により継続できています。

次回は、この辺りと著者の異動による新たなフェーズから書きたいと思います。

 


 

 

前号

ページの先頭へ