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キャリアに関する研究者からの提言 【キャリア・ナウ】
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2008年3月10日配信
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「キャリア」が意味すること
【1】
筑波大学 特任教授 キャリア支援室長 渡辺 三枝子 《プロフィール》
  今、新しい言葉や概念が次々と生まれては消えていく。流行のサイクルは短くなる一方である。私は「キャリア」という言葉も同様の憂き目にあると推測していた。しかし「キャリア」に関する限り、流行は減速するどころか、勢いを増し、使用される範囲も多方面にわたっている。電車に乗っても「キャリア」を見ない日はない。保守的と思われてきた学校教育の場においてさえ、今や「キャリア」に無関心ではいられない。
 「キャリア」関連の課題に取組む者にとって、長期化する流行は本来なら喜ばしいことかもしれないが、私の場合は手放しでは喜べなくなっている。キャリアに関わる熱心な方々との接触が増すにつれて、建設的に議論ができないもどかしさを経験することが多く、喉に引っかかった骨が取れないような苛立ちを覚えることが増えたからである。その骨が何なのわからなかった。しかし、ひょんなことから白州次郎氏の著「プリンシプルのない日本」を読んでいて私の喉に引っかかった骨の正体がわかった。それは「日本語というものは・・・綾があるとか、含みとか言って、ものを表現するのに、ヨーロッパ式に言うと、正確度と言うものに非常に欠いている。だからいろんな含みのあるような表現をする。その表現に自分が先に酔っちゃうのだ」というくだりを読み進んだときである。「キャリア」のあいまいな使われ方、そして自己流の含みをもって用いられている現状が私の喉に引っかかった骨だったのである。かなりのオピニオンリーダー的な役割を果たす人々の間ですら、「キャリア」で何を意味したいのかがあいまいなまま議論が進んだり、関連の理論について自己流の解釈を当てはめてはばからないことが、「キャリア」に関する研究や実践の進展を妨げているように思えてならないのである。
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