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2004年10月10日配信
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キャリア面接と上司の役割
法政大学キャリアデザイン学部 教授   桐村 晋次   《プロフィール》
●「親の葬式代を、まず貯金しなさい」
 東京オリンピックの前年、昭和38年(1963年)春に入社(古河電気工業株式会社)した大卒社員約100名は、当時の教育方針の下に、事務系は2年間、技術系は3年間、「教育配属」という制度によって全員が工場勤務になった。
 私は、横浜工場の通信ケーブル製造課工程管理係に発令された。
 赴任した初日に、先輩が作業者の監督者である職場長の所に挨拶に連れて回ってくれた。
 「そうか、君が今日からこの工場で働く人ですか。社会人になって自分の力でお金を稼ぐのですから酒を飲もうが、何に使おうが自由ですが、地方から出て来たのなら、まず親の死に目に飛んで帰って葬式を出すお金をためることですね。」と、最初に会った職場長が言う。社会人になるってそういうことなんだ、と今でもこの時の情況は記憶に残っている。当時の職場長クラスは全員が高小卒で、13、14歳で小僧として入社した人達である。その人達の見識、人間性に教えられることが多く、学歴でなく生涯学習の大切さを実感した。

●人事部によるキャリア面接
 教育配属の目的は、職務能力の習得とキャリア選択にあった。年度末には、人事部の管理職が工場に来て新人一人ひとりに30分ほど面接して、2年間の配属終了後にどんな仕事をやりたいかを質問する。2年目の3月には進路についての希望調査があって、その年の新人が入って数ヶ月すると交替に、営業や管理部門に出ていくことになる。私は企画部門を希望し、その通りに発令された。昭和41年(1966年)10月のことである。
 昭和40年代前半は、日本経済の高度成長期で国際社会へ仲間入りする時期に当たる。外国企業との技術導入契約、貿易や資本の自由化への対処、大阪万国博覧会、40年代後半には海外への進出、アメリカのドル防衛策による円の切り上げ、石油危機と続き、多忙だが張合いのある毎日だった。
 昭和50年に、事業部門の企画機能を強化することになり、私のいた経営計画部のスタッフは事業部門に分散配置されることになった。
 同僚達の多くが事業部門へ異動する中で、私は平塚工場の総務課長に発令された。1,200名ほどの工場で総務課は、人事・労務・福利厚生・安全衛生・庶務を所管する。仕事は、私に合っていてやり甲斐のある日々だった。4年の任期の後、本社の人事部に移り、教育課長、人事課長、人事部長の道に進むことになった。

●ジョハリの窓と上司の器
 私が、それまで経験したことのない人事・総務部門に突然異動したのは何故だろうかと考えたのは、ずっと後になって「ジョハリの窓」を学んだ時である。下図の右上は、自分は気づいていないが、他者(上司)が気づいている部分である。その時の上司は、人事課長の経験者で、人事部門への私の適性を見てくれたのであろう。「サラリーマンは上司次第」と言われることがある。それは上司の仕事ぶりを見習ったり、指導を受けたりすることを意味していることが多いが、上司がキャリア面接などによって部下の適性を見抜いて、人事部門に推薦すると、その効果は大きいに違いない。
 こうした私自身の経験から、人事課長になってから教育配属後に毎年、上司の部下に対するキャリア面接を実施したり、管理職教育にカウンセリング研修を導入した。自分がやりたい仕事や適性のある任務についた時と、そうでない時では、ホワイトカラーの力の発揮は数倍の差が出る。変化の時代には、本人主導のキャリア開発システムの確立は不可欠なのである。


ジョハリの窓

☆ 桐村先生には、次号についてもご執筆をお願いしています。 ☆
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