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◆ 2004年7月10日配信 ◆ |
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| 強い個人論と人材育成の危ない関係 |
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| 企業内での人材育成が危機にある。もちろん、企業が人材育成投資の総額を減らし始めたという意味だけではない。また、もちろん、人材育成一般が軽んじられているという意味でもない。 人材育成が危機にある、という意味は、企業のなかの、普通の人の、普通のキャリア開発のための育成が、多くの企業で、軽んじられているのではないかという危惧である。選抜型のリーダー育成のなかで、または、会社を休職したり、勤務時間後や週末の時間を使って、社会人MBAに通う社員に対する支援が大きくなるなかで、普通の社員のために行われる、通常のスキル教育や、管理者教育が、相対的に価値の低いものだと考えられてはいないだろうか。 単純に考えてみても、企業のなかでほぼ全ての人材は、「普通の人」である。したがって、社運をかけたプロジェクトのリーダーにはならないし、そのための意思決定もしない。当然、将来の経営層への選抜もされないし、また、経営者としての哲学も要らない。 でも、社運をかけたプロジェクトを成功させるためには、彼ら普通の社員の貢献が必要なのであり、また、選抜されたリーダーが、将来経営ポストにつくときには、多くの社員が、彼(彼女)をサポートしなくてはならない。 したがって、普通の人々のスキルを磨き、新しい仕事やレベルの高い仕事に挑戦するインセンティブを与えることは極めて大切である。そのための方法として、有効なのは、やはりキャリア・パスを企業が見せてあげることであり、結果として将来への夢を描くことができるように支援することである。今の努力が将来報われると信じることは、誰にとっても重要なモチベータであり、それを提供する義務は、企業側にある。 でも、今、多くの企業で、一部のリーダー人材を除いて、普通の人の育成に対する投資が軽減している。選抜されたリーダーの育成のためには、多くの資金と優秀な先生を準備するが、そうでない社員向けの育成は、できるだけコストパフォーマンスを重視する。 そして、さらに悪いのは、多くの企業で、普通の人材の育成について、エンプロイアビリティとか、自己責任論を強調しはじめていることである。一般的に、エンプロアビリティとは、外部労働市場で役にたつスキルや能力などを武器として、他の企業に移る力と理解されている。他の企業に移る力を獲得する努力をしなさい、と言われた個人が、どうして、自分の企業に頑張って貢献をしようと思うだろうか。それも、リーダーについていく、フォロワーとして、である。 また、普通の人々の、キャリア開発自己責任論は、もっといけない。企業内でのキャリア・パスが予想できない場合、スキル開発やキャリア開発を、社員に任せると、ますますその企業での仕事と関係の薄いスキルや能力を磨くからである。 なぜ、こんなことになったのだろうか。ひとつの原因は、多くの企業が、普通の人に、いつでも「戦力外通告」ができる準備をし始めたからである。でも、いつか戦力外になるかもしれないと考え続けて育つ社員は、当然、戦力外を志向するだろうし、実際に戦略外になる可能性が高い。逆に、戦力の重要な一部であると言われ続けて育成されたほうが、よっぽど戦力外になる可能性が少ないだろう。 そして、もうひとつの原因として、日本の多くの企業が、人材マネジメントにおいて、組織と個人の関係における、強い個人を前提にし始めたことがある。強い個人とは、自分でキャリアの目標が設定でき、そのための方法を自分で考えることができ、さらにそれを実行できる個人である。そういう強い個人が数多くいるのなら、リーダーだけを育成すればよいし、選抜に漏れた場合、自分の力で、外部労働市場でチャンスを求めていくことが期待できる。でも、はたしてそのような強い個人の仮定は、実際どれだけ妥当なのだろうか。仮定が間違っている場合、そうした個人を想定して、選抜されたリーダーだけを育成し、他の人材には自助努力を求める人材育成の仕組みは、かえって企業の競争力を奪う可能性がある。 そうした仮定よりも、もっと現実的な「普通の人」像を想定し、育成において、企業が個人を支援し、企業の求めるスキルやキャリアを示しながら、成果の評価をきちんと行い、だんだんとリーダーとフォロワーの役割を明確にわけていくモデルが必要である。強い個人論が人材育成の仕組みの前提におかれることで、極めて常識的な育成モデルが、崩れ始めている。 |
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